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海兵57期 石橋政雄中佐の写真

こんにちは
そして御無沙汰しております、objectでございます
新生活の始まる季節、皆様いかがお過ごしでしょうか?
私はなかなか忙しくて参っています
そういえば最近、軍令部で勤務し暗号を扱っていた方にお会いしてお話を聞いてきました
海軍で暗号はどのように扱われていたか、そして赤煉瓦での生活はどういったものだったかをお聞き出来たので楽しかったです

さて、今回は海兵57期の石橋政雄中佐の遺された写真類です
潜水学校や(たぶん)軍令部での写真等があります
なかなか著名な軍人たちも写っておりますので枚数は少ないですが、お楽しみ下さい
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※昭和四年練習艦隊磐手乗組の候補生たち。上から2列目左から三番目が石橋政雄中佐
さて、枚数が少ないので大したボリュームもないですが、進めて行きたいと思います。


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この写真は紀元節か何かの記念日に艦長とその艦のガンルーム士官で撮られた写真だと思います。
艦の判別は全く出来ないので詳しい人に聞いた所、妙高型というお話をいただきました。
石橋中佐は後列左から2番目に写っています。少尉ですね。
兵57期が少尉だったのは昭和5年12月から7年12月の間でした。
石橋中佐は昭和5年12月1日少尉任官と共に妙高乗組になっているので、これは妙高の写真ではないかと思います。
とすると、艦長は兵34期の山口長南大佐か兵35期の井沢春馬大佐ということになりますね。
残念ながら写真を持っていないので確認出来ていません。
しかし、事変前の正装を着れる時代、良い写真です。


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次はこの写真です。
この写真は本当によく分からなくてですね。
画質が粗いというのも原因なんですが、石橋中佐は写っていないような気がするんですね。
また中央の海軍中将は豊田副武にしか見えなくてですね。
そこで豊田中将と仮定して艦隊勤務を調べてみると昭和12年と13年に第四艦隊と第二艦隊の長官をそれぞれやっておられました。
この時期、支那事変が始まった時に石橋中佐は12年7月24日附で名取の通信長に補職されていました。
名取と第四艦隊の繋がりはないですが、ちょうどこの時期佐世保鎮守府の特別陸戦隊を中国方面に移送していたので、その時に足柄で撮影した写真をたまたま持っていたのではないかと思います。
陸戦服の形から時期的には合いそうな感じですからこういった形で落ち着きました。


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これは「昭和十六年度第三回臨時潜水艦兵科講習員」の写真です。
当時の潜水学校校長は"兵37期"の樋口修一郎中将ですのでそういった意味でもかなり嬉しかったです。
石橋中佐は前列左端にいます。この時は潜水学校の教官だったみたいですね。

この写真、判別がかなり困難です。
この第三回臨時潜水艦講習は兵67期、兵68期に対して行われたものですが、辞令公報に発令を見つけられませんでした。
ただし、公報にはこの時期に潜水艦への辞令が纏まって見られるのでそこから兵67期から68期の方々が写っていると判断しました。
また、兵67期会誌『67期海軍史』43頁によると、この講習は昭和16年8月下旬から1ヶ月間、潜水学校で講習を受けるという課程だったようで、兵67期では上田淳二、越山清堯、永松正輝、寺本稲雄、花房義夫に発令されたとのことです。
その後の彼等の経歴を見てみると、上田さんは第11潜水隊へ、越山さんは伊59潜へ、永松さんは伊64潜へ、寺本さんは伊10潜へ、花房さんは伊53潜へ配属になっています。
ということは、この課程は術科講習のなかった60期代後半の士官に配属先に合わせて術科講習を施したものとみてよさそうですね。
この課程を経た中で寺本大尉と永松大尉は昭和18年に潜水艦の高等科学生になり潜水艦のマーク持ち、さらに永松大尉は潜水学校甲種学生を経て呂56潜の艦長になっています。
潜水学校高等科学生はその後潜水艦の水雷長に、甲種学生は艦長になるというのが通例です。
また、この臨時講習員の中で高等科は2人、甲種に至っては1人しか出ていませんので、残りの方は優秀じゃなかったのかと思われるかもしれませんが、そうではありません。
上田さんは17年12月20日に伊4潜の航海長で戦死、越山さんは17年8月29日に呂33潜乗組で戦死、花房さんは18年6月21日に伊7潜航海長で戦死してしまったので受けられなかったのです。
さらに寺本さんも19年2月13日伊27潜航海長で、永松さんも20年4月7日に艦長で戦死しています。
この写真の67期講習員は全滅です。
67期で潜水艦畑に進んだ方は全部で49名いますが、終戦時に生き残っておられた方は13名です。
実に73%の戦死率です。
太平洋戦争では潜水艦とその乗員の損耗率が非常に高かった戦争ですが、改めてこうやって見ると凄まじさが際立ちますね。


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昭和17年臨時潜水艦機関科講習員

さて次は「昭和十七年度第三回臨時潜水艦機関科講習員」と付けられています。
この課程は先ほど説明したものの機関科将校版ですね。
この課程を経た方達は恐らくその後潜水艦の機関長等に補された事でしょう。

この写真は名簿が付いていたので、名前がはっきりしないお三方以外はなんとか判別致しました。
またまた校長は樋口修一郎中将です。私の中で樋口中将フィーバーが起きています。


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これがラストの写真です。
そしてこれはどのような写真かも分かっていません。
まずこの中ではっきりと名前が分かるのは、前列中央の加藤隆義大将、その左横の谷本馬太郎中将、右から三番目の柳本柳作大佐、前から三列目左から四番目の有泉龍之助大佐、それから六番目の山本祐二少将、右から六番目の黛治夫大佐、5列目右から二番目に石橋中佐、6列目右から五番目に中島親孝中佐です。
あと柴崎恵次中将と思しき人、また見た事はあるような方々もいますがぱっと名前が出て来るのはこれだけです。

そこから考えてみるに、まず柳本中将は大佐で参謀飾緒を付けておられるのでこの時は軍令部二部三課長だと思われます。
時期は昭和14年11月15日から16年10月6日までの間です。
次に山本祐二少将はこの時中佐で参謀飾緒を付けているので聯合艦隊参謀若しくは軍令部一部一課員です。
しかし、GF参謀が一人でこの写真に写っているのはおかしいので軍令部作戦課時代でしょう。
となると、昭和15年10月15日から昭和18年6月15日の間ですから柳本さんとも被りますね。
中島親孝中佐は少佐でこちらも飾緒を付けているので軍令部四部九課員ということになります。
海大卒業後、昭和16年9月までなので時期もぴったりです。
有泉大佐も中佐で飾緒なので昭和15年11月以降、軍令部一部二課員となります。
この写真はどうやら軍令部職員が写っているようですね。
谷本中将も昭和15年11月15日から16年4月10日まで軍令部出仕ですので辻褄は合います。
そして前列左から4番目を柴崎恵次中将と仮定すると昭和15年9月25日から16年9月10日まで水路部総務課部長を勤められています。
この写真は海軍省の職員も入っている事になります。
昭和15年11月以降の赤煉瓦職員大集合というわけですね。
加藤大将はこの時期軍事参議官ですので、加藤大将が訪問された記念に撮影された写真でしょうか?
しかし袖に腕章を付けているので演習などの審判部員なんでしょうか?
また写っている人間もどの基準で写っているのか分からないので謎は深まるばかりです。

気を取り直してこのデータを元に考察すると前列右端の大佐は軍令部第二課長の岡田為次大佐、左から六番目は軍令部四部長の中島寅彦少将、左から二番目は人事局一課長の島本久五郎大佐、右から4番目は人事局二課長富永昌三大佐、3列目右から2番目軍令部作戦課員の三代一就中佐は新たに分かりました。
しかし、これ以上はよく分かりませんでした。
海軍士官の判別に自信のある方、スキャンデータをお渡ししますので手伝って下さい。

以上、石橋政雄中佐の写真でした。
いやー、結構書く事あって疲れました。
4枚目の写真は開戦前の赤煉瓦職員で結構貴重そうな写真ですね。
これに名簿が付いてればなぁ〜
今回は疲れたのでこれくらいで。
お疲れさまでした。
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[ 2018/03/25 18:39 ] 海軍実物資料 軍人の写真 | TB(0) | CM(0)

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