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古賀峯一連合艦隊司令長官と共に殉職された、大久保信海軍軍医少将のアルバム

お疲れさまです。
管理人でございます。

さて、良い物が手に入ったので更新頻度は短くなりますが投稿します。
海軍乙事件で殉職された連合艦隊軍医長の大久保信海軍軍医少将のアルバムです。
このブログで紹介しているアルバムの中でも屈指の知名度を誇る方ではないでしょうか?
それに相応しくこのアルバムには素晴らしい写真がいっぱい入っていました。
いやー、良すぎて悶えましたね。
やっぱり司令部写真は素晴らしい。
前置きはこんなもんでと思いましたが、一件注意事項があります。

※一部遺体が写る写真がありますので、ご了承下さい

お医者さんのアルバムですからね、その点のみご注意下さい。
では早速見ていきたいと思います。
musashi.jpg

まずは大久保少将のご紹介からしたいと思います。

大久保信a
<海軍軍医少将 大久保信>

1918年3月 千葉医科専門学校卒業
1918年6月8日 任海軍少軍医 海軍軍医学校乙種学生
1918年12月1日 霧島乗組
1919年9月1日 吾妻乗組
1920年11月1日 金剛乗組
1920年12月1日 任海軍軍医中尉
1921年5月26日 第十三駆逐隊軍医長心得兼旅順要港部附
1922年4月1日 呉海軍病院一部員
1922年12月4日 石廊軍医長心得
1923年10月10日 駒橋軍医長心得
1923年12月1日 任海軍軍医大尉 駒橋軍医長
1924年4月1日 海軍兵学校附
1925年3月19日 迅鯨軍医長兼分隊長
1925年9月10日 磐手乗組
1926年4月20日 磐手軍医長兼分隊長
1926年12月1日 横須賀海軍病院部員
1927年7月29日 海軍軍医学校高等科学生
1928年4月1日 舞鶴要港部員兼分隊長
1928年12月10日 任海軍軍医少佐 海軍軍医学校選科学生
1930年12月1日 海軍軍医学校教官兼監事兼副官
1932年2月26日 室戸乗組
1932年6月2日 海軍軍医学校教官兼監事兼副官
1932年12月1日 高雄軍医長兼分隊長
1933年11月15日 任海軍軍医中佐 艦政本部出仕兼医務局局員
1934年12月1日 軍令部出仕
1934年12月10日 欧米各国出張
1935年8月17日 帰朝
1935年8月26日 軍令部出仕兼海軍省出仕
1935年10月31日 医務局員兼教育局員兼艦政本部員
1938年8月20日 軍令部出仕
1938年11月15日 任海軍軍医大佐
1939年11月15日 横須賀海軍病院第二部長兼教官
1940年10月5日 軍令部出仕兼海軍省出仕
1940年11月15日 医務局員
1942年4月1日 医務局第一課長
1942年12月20日 第十一航空艦隊司令部附
1942年12月24日 南東方面艦隊軍医長兼第十一航空艦隊軍医長
1943年5月3日 連合艦隊軍医長
1944年4月1日 海軍乙事件で殉職 任海軍軍医少将

大久保軍医少将は千葉医学専門学校(現在の千葉大学医学部)出身の方です。
艦隊勤務から陸上勤務まで幅広く勤務されていますね。
太平洋戦争中は司令部の軍医長としての勤務が目立ちます。
とても優秀な方だったようですね。
ちなみに専門は内科で、医学博士も取られています。

大久保少将については海軍軍医の戦友会、桜医会が纏めた書籍に面白いエピソードがあったので紹介します。
このエピソードは近藤隆造軍医少佐(昭和13年任官)が岩手医専在学中に委託学生の試験を受けた際のもので、以下に引用します。

だがまず困ったことには身体検査で視力が不足しているということだった。[中略]昭和十二年二月のことである。石原式視力表を指し示される棒の先がどこか見当をつけて、視力一・〇までを右から左から全部暗記してしまった。検査当日は壁に貼ってある石原式視力表ではなかった。[中略]見たこともない視力表が出てきたので、一ぺんに私は固くなって体が震えだしてしまった。インチキがばれてしまった。後のことはよく覚えていないが要はこんな問答があったのであろう。
"その見たこともない視力表では何も見えません、壁に貼ってある石原式視力表なら全部見えます"と。
突然"アハハ"と笑い声がはいってきた。
ハッと吾に返った私に"もうよし、次へ"と側の少し離れた処にいた試験官にいわれた。そして筆記試験と口頭試問を受けさせてくれた。[中略]その試験官は額に疵のある方だった。一年後に氏名が解るのだが海軍軍医中佐大久保信さん(大正七年)だった。 ー桜医会『海軍軍医学校追想録』桜医会出版部、平成元年、105〜106頁。


なんともまぁ、海軍らしい話ではないでしょうか。
大久保少将が一気に好きになりました。
近藤軍医少佐は後年、第11航空艦隊司令部附として大久保軍医長の下で働くことになります。
また学生の採用には軍医学校ではなく、海軍省医務局が当たっていたという事も分かる非常にいいエピソードでした。


では、さっそくアルバムの方に入っていきましょう。


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こちらの写真には「明治四十五年二月二十六日」とキャプションが付いています。
1912年、明治最末期の頃の写真ですね。
大久保少将はこの時16歳です。
1918年(大正7年)に千葉医専を卒業されていることから、入学は1914年(大正3年)になりますので、この頃は旧制中学生だったのでしょうか?


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この写真には「大正四年秋」とのキャプションが付いています。
千葉医専2年生の頃に同期生と撮影した写真だと思われます。
それにしても特徴的な帽章をしていますね。
千葉医専は調べてみると多数の海軍軍医を出しているようなので同期生の方もその後、海軍に入られたのかもしれません。


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こちらも上の写真と同時期に撮られたものです。
解剖実習の時の写真と思われます。
大久保少将は頭の部分にピンセットで何やら作業をしています。
左から三人目の方は、1枚目で大久保少将と写る方と似ているので同じく千葉医専に入られたのかもしれませんね。


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この写真には「大正五年(三年) 外科講習会」とあります。
当時のナース服がよく分かる写真ですね。
写っている先生方については調べていませんのでよく分からないです。


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この写真には「大正六年夏 眼科講習」と書いてあります。
なるほど、茶色のような制服は合服なんですね。上の写真は冬服なんでしょう。
また医専は4年制ですが、ちゃんと各科講習があって大学と変わらないようですね。
大学医学部と医専の違いってなんだったんですかね。
私は海軍に任官する時の階級が違うってことだけで認識しています。


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これには「大正六年冬 井上博士内科講習」とあります。
制服も冬服になってますねw
中央に写る井上博士とは井上善次郎博士の事で、千葉医専の初代内科学教授だった方だそうです。
大正5年に退官された後は井上診療所を千葉市内に設立されました。
この写真はその井上診療所の前で撮影された写真だと思われます。
表札をみると、井上博士の他に花岡和夫と書かれていますが、こちらも千葉医専を卒業後、井上診療所の副院長をされていた方だと判明しました。
井上博士の左隣に座っている方ですね。
この花岡先生は昭和5年に井上診療所が井上病院になった際には院長を勤められています。
この井上病院は現在も井上記念病院として千葉市内にあるようです。詳しくはこちらから → 井上記念病院概要


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「大正七年二月十一日 アルバム委員会ヲ終ヘテ」とキャプが付してありましたが、大久保少将は卒業アルバム編纂に関わっていたみたいですね。
大正七年度千葉医専のアルバム見てみたい・・・ただ、海軍のアルバムより入手難しそう・・・
それにしても一番右端の方がミスター(鈴井貴之氏)に似てる気がするんだ。


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「大七・三 卒業ニ際シ」とありますように、卒業の時に撮られた写真のようです。
この時は22歳くらいでしょうか?今の医大生より早いですね。


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さて、ようやく海軍色が出て参りました。
キャプが「大七・六月 任官時」とあるように、海軍少軍医(後の海軍軍医少尉、大正8年9月22日に改称)に任官された時の写真です。
海軍の軍医は学生時代に海軍委託学生として採用された後、大学出は軍医中尉、専門学校出は軍医少尉に任官します。
大久保少将も学生の時分に試験に合格し委託学生となり、卒業と共に軍医少尉に任官しています。
その後、大久保少将は海軍軍医学校乙種学生(大正7年8月14日に普通科学生と改称)となり、軍医科士官の初等教育を軍医学校で6ヶ月間受けたと思われます。


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これには「第一次遠洋航海 大正八・十一月」と書かれていましたが、大久保少将は吾妻に乗って大正九年練習艦隊に参加し、ヨーロッパ方面を旅します。
この時の司令官は堀内三郎少将、吾妻艦長は原田正作大佐でした。
もちろん、軍医として乗り組んだのではありません。
後に研究乗組軍医科士官(通称研軍)と言われますが、軍医科士官も練習艦隊に参加し、見聞を広める事を要求されたのです。
こういった制度は海軍の良い所だと思いますね。


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「大・九年二月十一日 ナポリ入港ニ際シテ」とありますが、2月11日は紀元節のため正装をしています。
横の少尉さんは多分ですが、海経6期の島津惣次主計少尉だと思われます。


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これには「大九・三 マルセイユ市長歓迎会」と付してありますが、マルセイユで市長の歓迎会が催された際の一枚です。
少尉から少佐までの方が写ってますねー。
たまたま手元にこの時の写真帖があったのでちょっと頑張ってみました。
大・九年二月十一日 ナポリ入港ニ際シテ

いやー、大変だった。
まぁなんとなくの感覚でやったので間違いは随分とあるかと思いますが、これが限界だった。
個人的には野元大尉が嬉しいですね〜。なんたって兵37期で野元為輝少将の兄貴だもん。


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こちらも遠洋航海の時の写真です。
2枚目は吾妻のガンルームだと思いますね。


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こちらには「呉海軍病院時代 大正11-8」とキャプが付してありますが、呉海軍病院勤務時代の集合写真です。
軍医中尉に昇進されてますね。


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これらは石廊軍医長心得時代に撮られた写真です。
石廊はタンカーとして北アメリカなどから石油を運んでいましたので、その際アメリカで撮られたものだと思われます。


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この写真には「12-4-24」とだけ書かれていました。
たぶん、結納の時の写真だと思われます。大正12年4月にご結婚されたんですねー。
この時満27歳、翌日が誕生日です。


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この写真には「大正一四-二-一五 兵学校集会所ニテ」と書かれていましたが、海軍兵学校附の時の写真です。
軍医大尉に昇進されてますね。
今でもこのような風景を江田島で見ることが出来ます。


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海兵附の頃の写真です。
この写真に関しては判別はなかなか厳しいですが、前列右から二人目は沓掛諒軍医大尉ではないかなと思います。
また、前列中央の大佐は海兵軍医長として今沢正冬軍医大佐ではないかなと思っていますが分かりません。


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大正14年10月14日に、ちょうど磐手乗組を命ぜられてすぐに撮られた写真です。
だいぶ壮年がかってきたように感じます。


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さて、ここからは大久保少将二度目の遠洋航海になります。
この写真は「磐手医務科 15-3-21」とありますので、大久保少将が磐手乗組の時の集合写真ですね。
この後、磐手軍医長として大正15年度練習艦隊に参加されます。


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これらは遠洋航海で訪れたオーストラリアで撮影されたものです。
上からシドニー海軍病院、シドニー大学、メルボルン病院だそうです。
候補生の見学コースとは違ってきているのでたぶん研軍を連れての見学コースだったんでしょうね。


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さて、だいぶ飛びますが、これらは舞鶴要港部時代に家族で撮られた写真です。
子供さんが増えておられます。
遠洋航海終わってから横須賀病院、高等科学生と陸上勤務が多かったですからね。


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昭和4年4月21日に麹町、今の九段にあった西洋料理屋富士見軒で開催されたさくら会という会の大会です。
このさくら会というのはよく分からないのですが、この中にいらっしゃる方で、

大貫安三:明治31年任官 軍医中将 当時医務局長
松隈尚一:明治31年任官 軍医中佐
大貫安三:明治31年任官 軍医中将 当時医務局長
後藤顧三郎:外科 千葉医専 大正5年任官 軍医少将 当時軍医学校選科学生
大久保信:内科 千葉医専 大正7年任官 軍医少将 当時軍医学校選科学生

は海軍の軍医さんでした。
他は最初辺りに紹介した写真に出てくる花岡和夫先生くらいしか分かりません。
ただ皆さん医者ではないかなと思うので、そういった医者の会の集まりなんだろうなとは考えてます。


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これらは昭和3年、海軍軍医学校の選科学生時代にたぶん同じく選科学生の方々と旅行された際に撮影されたものだと思われます。
ちょいちょい見た事あるような人もいらっしゃいますが、ちょっと厳しいですね。


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そして大久保少将は選科学生と共に軍医少佐へと昇進されています。
写真からはよく分かりませんが、おでこが広いのは前述した疵が原因なのかもしれません。


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うーん、でっかい集合写真が来ましたね。
この写真には「昭和五年十月三日 開院披露式当日撮影」と書かれています。
そこから大久保少将が軍医学校教官時代のものだと分かりますが、どういった写真かは当初分かりませんでした。
しかし!調べていくと関東大震災で軍医学校が全焼し、昭和5年11月28日に新校舎が落成していたことが判明しました。
これはその時の写真だと思われます。当時の軍医学校長は国府田中軍医少将です。
また、国府田校長から左に3人目の軍医大佐は、当時教官として勤務されてた丸田幸治軍医少将です。
なぜ丸田少将を出したか、詳しい方はもうお分かりかと思いますが、彼の息子さんは丸田吉人軍医少佐です。
井上成美大将御令嬢の夫が丸田軍医少佐なんです!
こちらからは以上です。


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昭和六年十一月二十七日 卒業式記念

ん〜こういう写真を待っていた!
礼装のいい写真ですねぇ、これは!
この写真にもキャプションをちゃんと付けていてくれてほんと大久保少将いい人。
「昭和六年十一月二十七日 卒業式記念」の時の写真だそーです。
軍医学校の卒業式の際に職員で撮られた写真だと思われます。
一応頑張って判別してみましたが、確実な方は少ないです。
大久保少将のアルバムで軍医に関してはだいぶ満たされた感がある。


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こちらも上記と同じ時期に撮影されたものだと思います。
面子が被ってますからね。
軍医学校の面々で宴会なりやった時のものだと思います。


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こちらは昭和7年2月24〜27日に撮影された写真です。
ご家族と写っておられますが、たぶん、第一次上海事変の影響で「室戸」乗組として出征される大久保少将が出征前に記念として撮られた写真だと思います。
面白いのは4枚目の写真、キャプションには「27/2 8pm」とあり、2月27日午後8時に撮られたと時間まで記してあるんですね。
同じく出征する陸軍兵士と共に駅かどこかで撮影したのでしょうか?
テーマ的には暗い写真ですが、なんだか懐かしいような不思議な感じのする写真です。


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室戸

そして大久保少将は特務艦「室戸」に乗り組んで第一次上海事変に出征します。
これはその時の室戸准士官以上集合写真です。
艦長は我等が兵37期の山田満少将です。
この時の室戸にはアジ歴で調べてみると随分と多くの軍医科、薬剤士官が乗り組んでいましたのでなんでだろうなーと思っていましたが、第一次上海事変で室戸は臨時に病院船として活動されていたそうです。
なるほど、それなら納得ですわ。


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こちらはかの有名な爆弾三勇士が戦死された場所のようです。


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昭和7年4月8日、室戸での大久保少将です。


さて、アルバムに貼られていた写真はここまでです。
大久保少将は室戸乗組が終わると軍医学校へ戻り、高雄軍医長を経て欧米出張を命ぜられ日本を離れます。
残念ながらその時の写真はありませんでした。
その後、昭和10年8月に帰朝され、軍令部出仕、10月に海軍省医務局局員になられます。
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昭和10年頃の軍医学校総員で写した写真だと思われます。
名簿が付いていて、正直これがなければ一連の軍医科の写真の判別は不可能でした。
軍医集合

整理するとこんな感じ。
ちょっと入り組んでて見えにくいですが、これはマジで頑張った。
一部、分からない人物もいますが、だいたいこんなもんだと思いますよ。
軍医科は海軍士官の中でも更に所帯が狭いので、面子がそんなに変わらないという事もあって普通の海軍の写真よりはやりやすかったです。
大久保少将には感謝感謝。
ただ大久保少将は写っておられないのでどういった経緯でこれがというのは分からないです。
面白いのはですね、士官の集合写真、特にこういった改まったものは階級とか卒業年とか席次で中央から綺麗に並んでいくのが普通なんですね。
そこで注目していただきたいのは、一列目左端の大須賀都美次軍医中佐とその右の福井信立軍医大佐です。
大須賀軍医中佐は大正5年任官、対して福井信立軍医大佐は大正6年任官です。
あら、これは間違えてるんじゃないかと思われるかもしれませんが、正しい並び順です。
先に10枚目の写真の時にも説明しましたが、卒業した学校が大学か専門学校かによって最初から階級が一つ違うのが軍医科、主計科、技術科の世界です。
大須賀軍医中佐は大久保少将と同じく千葉医専出身、対して福井軍医大佐は京都大学医学部出身です。
ですから軍医大佐への進級も福井軍医大佐の方が2年ほど早いです。
そういった制度的なことも垣間みれる面白い写真でした。


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こちらは昭和11〜12年頃に芝の水交社で撮影された、大軍大臣が少尉候補生を招待した会の写真です。
当時、大久保少将は軍医中佐で海軍省に勤務されていたので写っていても矛盾はありません。
当時の海軍省の将官たちを確認出来るいい写真です。


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これも上と同じ頃に撮影されたものでしょうか?どこかの大学で軍陣医学の講演をされた時の写真だと思います。
2枚目中央に写る人物は医務局長の高杉新一郎軍医中将です。
興味深いのはナチスドイツの軍人も一緒に写っている事ですね。
どなたか分かりませんが、駐在武官かもしれません。
また、学生の帽章から東大医学部で撮影されたものじゃないかなと思っています。
高杉中将の母校ですね。


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昭和13年4月18日に細菌学者のパウル・ウーレンフートが軍医学校で講義をした際の写真です。
医務局長高杉軍医中将、軍医学校長向山美弘軍医少将などが確認出来ますね。
講義の際の写真もありましたが、割愛致しました。


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金田中

この写真は昭和13年6月20日に新橋の料亭金田中に於いて、山本五十六海軍次官がドイツ軍医団を招待した宴会での写真です。
山本五十六出ちゃいましたね。
この料亭は今でも新橋にあるようです。
写っているのは名簿にある通りですが、横山一郎少将いい笑顔をされています。


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そして昭和13年11月15日に大久保少将は軍医大佐に進級されます。
有り難い事にアルバムに辞令が遺されていました。


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この写真はどういった写真かは分かりませんが、たぶん海軍軍医の方が亡くなられた際の葬儀の写真だと思われます。
大久保少将は軍医大佐の軍衣を着ているので13年11月15日以降というのは分かりますがそれ以上の事は分かりません。
また田中肥後太郎軍医中将も出席されていたようですね。


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161120 舞鎮

昭和16年11月20日に小林宗之助舞鶴鎮守府長官と保利信明軍医学校長が写っている写真です。
これも一応頑張ってみたのですが、どういった面子が写っているのか、医務局局員である大久保少将がいらっしゃるのでよく分からないというのが実情です。
この写真、詳しい方の話では山中病院開院記念に撮影された写真のようです。


その後、太平洋戦争が始まりますが、大久保少将は昭和17年4月まで医務局員と医務局第一課長を勤められますが、昭和17年4月以降、なんと南東方面艦隊の軍医長になられるのです!
ここからは怒濤の集合写真来ますからね!
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ああああああああああああああああああぁぁぁっぁっぁっぁっっぁっっぁぁっぁっぁっっぁっぁぁぁぁぁあぁぁ!
これは初見でした!草鹿の任ちゃんの!兵37期海軍中将草鹿任一南東方面艦隊司令長官以下幕僚の集合写真です!
草鹿長官ですよ!もうほんと好き・・・
これめっちゃいい写真です。マジ最高。
何も言う事がない。それくらい素晴らしい。
これは昭和18年2月11日にラバウルの南東方面艦隊司令部前で撮影されたものです。
当時の南東方面艦隊の面々は、昭和17年12月24日時点での記録ですが、

司令長官:草鹿任一 海軍中将
機関長:本多伊吉 海軍大佐
軍医長:大久保信 海軍軍医大佐
主計長:船山忠一 海軍主計大佐
参謀長:中原義正 海軍少将
参謀:三和義勇 海軍大佐
参謀:大前敏一 海軍中佐
参謀:轟萬作 海軍中佐
参謀:篠原多磨夫 海軍中佐
参謀:塚田収 海軍中佐
参謀:浅田昌彦 海軍中佐
参謀:山口博 海軍中佐
参謀:山田武 海軍機関少佐
参謀:福原穣 海軍機関少佐
参謀兼副官:野村了介 海軍少佐
副官:谷井徳光 海軍大尉
司令部附:三代辰吉(一就) 海軍中佐
司令部附:池田巌 海軍少佐
司令部附:室川武能 海軍少佐
司令部附:大野憲吉 海軍軍医少佐
司令部附:刈谷徳治 海軍主計大尉
司令部附:山根孝雄 海軍中尉

となっております。
ラバウル司令部

これを当てはめて見ましたが、如何せん50期代の方々のお顔を知らなさすぎてこのような結果に・・・
悔しい、めちゃんこ悔しい・・・
特に三和さんはこんな顔だったっけ?いやもう分からん・・・
しかし、これはほんと興奮する写真です。手に入って無上の喜びを感ずる。
私は軍服に関してはあまり詳しくはないですが、襟章の付け方がまちまちなのが面白いですね。
まだ略服は制度化があまりされてなかったかしらん。


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こちらも同じく南東方面艦隊司令部の写真です。画質が悪いのが残念。
ただ、面子は変わってないので上のと同時期くらいだとは思います。
大久保少将は昭和18年5月までNTF軍医長を勤められますが、その間に山本五十六GF長官が戦死するという海軍甲事件に当事者として遭遇します。
発見された山本五十六長官の遺体検死をされたのが大久保少将です。


その後、大久保少将は海軍甲事件で戦死された高田六郎GF軍医長の後任としてGF軍医長になられます。
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連合艦隊司令部

遂に来てしまいましたね、連合艦隊司令部の写真が・・・
やばいですね・・・これは。
これが欲しくて頑張っちゃったもんね。
ここに写っているのは当時の海軍最高峰の士官たちです。
また、古賀GF司令部の写真としては最初期のものです。
写真が撮影された時期は分かりませんが、藤井茂渉外参謀が18年8月10日で交代、高田利種首席参謀の着任は18年6月11日で、撮影場所は甲板の広さから武蔵艦上の可能性が高く、また背景が東京湾ではないと思うので、武蔵が東京を離れた7月31日以降に撮影された写真ではないかなぁと思っています。
トラック湾かどうかはちょっと自信がありませぬ。


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一枚目に写っているのは上野権太GF機関長と大久保GF軍医長です。
これらの写真、古賀峯一長官がどこかに訪問された際の写真ですが、3枚目の座っている方々、手に手錠をされているように見えるんですね。
最初見た時は何の写真か、何故手錠をされた囚人?のいる所に古賀長官が行かれたのか、分からない事だらけでした。
その後、日本ニュース第206号に古賀長官が病院船を訪問した際の映像と同じではないかという話をいただき確認した所、この写真と同じ様な風景が見られ、その時に撮影されたものだと確信しました。
映像はこちらから見られますのでぜひ確認してみて下さい → 日本ニュース第206号
ちなみに、なんと大久保少将も一緒に写っています!


そして、昭和19年3月31日、海軍乙事件によって古賀峯一長官以下多数の幕僚が殉職されました。
以下に乙事件で殉職された方を列挙します。

長官:古賀峯一
機関長:上野権太
軍医長:大久保信
主計長:宮本正光
首席参謀:柳澤蔵之助
航空甲参謀:内藤雄
航空乙参謀:小牧一郎
水雷参謀:小池伊逸
航海参謀:大槻俊一
機関参謀:奥本善行
副官:山口肇
気象長:島村信政
暗号長:新宮等

大久保軍医長も殉職され、軍医少将に特進されました。
紹介した連合艦隊司令部の写真に写っておられた方も多いですね・・・

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こちらで最後の写真になりますが、大久保信海軍軍医少将の写真です。
お気づきの方も居られるかと思いますが、大久保少将は軍医大佐の時に戦死されているので軍医少将の時の写真は残っておりません。
実は最初に載せている大久保少将の肖像写真は連合艦隊司令部の時の写真から切り取ったものですが、こちらの写真と似ていると思いませんか?
そういった点からGF軍医長時代の写真に軍医少将の肩章を合成して、遺影として使われた写真だと思われます。
こういったものまで売りに出されてしまう時代なのだなと少し残念に思いますが、時が経つというのはそういう事なのかもしれませんね。


以上、大久保信軍医少将のアルバムを紹介しました。
艦隊軍医長として活躍されていた方のアルバムだけに、素晴らしい写真が数多くありました。
色々と見ていて楽しかったです。
またこういった遺品の散逸についても考えさせられたアルバムでした。
そして戦時中という時代が歪な形で歴史に成り得ていないという事も。
難しいですね。
でも、こういった写真を紹介する事で過去に埋もれそうな方々が少しでも忘れられないように、また誰かの何かのキッカケになればいいなと思ってこのブログをやっております。
今後も出来る限り色々と紹介していきたいなと思っております。
ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い申し上げます。
今回は以上です。お疲れさまでした。
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