前回、松山市に行っていたのはこの本について坂の上の雲ミュージアムに用事があったからです。
この本は海軍の法人水交社の幹事だった秋山真之中将が英語での手紙の書き方や名刺の様式について書いた現代でいう英語での手紙の書き方のHow to 本みたいなものです。
この本は明治36年の初版本で、(たぶん)海軍大学校で秋山真之と斎藤七五郎が授業で使った物だと思います。
坂の上の雲ミュージアムさんの報告の中のお陰で斎藤七五郎中将と秋山真之中将の関係性がいろいろ分かったので、書いていこうと思います。
この「海軍英文尺牘文例」は明治36年2月18日初版で
水交社幹事 秋山真之が海軍大学校教官時代に発行された物だと思われます。
緒言にある人名を見ていくと、斎藤孝至は海軍中将、櫻孝太郎は伊東祐麿海軍中将の娘婿で海軍主計総監、浅岡満俊は海軍造船中将、金井茂太郎は海軍主計少監、山川端夫は海軍に縁の深い政治家、外交官僚です。
秋山真之は英語が堪能だったことは周知の事実ですが、こういう本を書いているとは知らなかったですね。
この緒言と目次の部分に
斎藤という判子と篆書体で斎藤七五郎と押してあり、斎藤七五郎の所蔵本だと分かりました。
この本は近代デジタルライブラリーで閲覧出来ますので、そこでどうぞ
近代デジタルライブラリー -海軍英文尺牘文例-この本には様々な斎藤中将(当時少佐)や著名軍人の英語に関する物が挟まっていました。
それを紹介していこうと思います。
謎のメモ

何が書いてあるのか分かりません。
ロシア公使館付武官の名刺

これも誰だか分からないのでT学芸員が調べてくれるようです。
何かの招待状

帝国海軍のAdmiral Tomioka(冨岡定恭中将だと思われる)への招待状だと思います。
冨岡定恭中将とその幕僚への招待状

冨岡定恭中将への招待状

この一連の冨岡中将(当時少将)の招待状は英仏派遣、造兵監督官時代のものだと思われます。
これらの招待状類は富岡中将と同じ職場で働いていた海軍大学校と軍艦「厳島」時代に貰ったものだと思います。
練習艦隊での富岡定恭少将と斎藤七五郎少佐、田村丕顕大尉です。
厳島は練習艦隊旗艦として外国に行ってますので、一連の斎藤中将の品はその時の物でしょう。
というか、この本を持って行ったのではないでしょうか?
斎藤七五郎中将への招待状

Lieut. Commander S.Saitoとありますので、少佐時代の招待状です。
たぶん、斎藤中将の晩餐会か何かでの名札

Herrとありますから、ドイツ語圏内の国でしょうか。
斎藤七五郎少佐の名刺

厳島勤務時代の名刺です。練習艦隊時代で英語名刺が必要だったのかもしれません。
秋山真之の名刺(サンプル)

これを、坂の上の雲ミュージアムに問い合わせていました。
後述しますが、これはサンプルでした。
ページ最後に貼付けられた新聞切り抜き

イギリスとドイツのことですね。説明しにくいですが、イギリス側から書かれているのでロンドン・タイムズの記事だと思われます。
と、このようにこの本自体がオリジナルと言えるぐらいカスタムを受けた本なのですが、
この斎藤七五郎中将と秋山真之中将の繋がりは相当強かったみたいです。
ここからは坂の上の雲ミュージアムの調査結果書類で説明しようと思います。
斎藤中将と秋山中将の関係

青い部分が共通の職場や位置で働いていた時のです。
秋山真之が大学校教官をしていた時の教え子4人のうちの一人でかなり仲が良かったようです。
詳しくは文書で・・・・
で、本については
完全にサンプルだと言われてちょっとがっかりしましたが、いつか秋山真之中将の品を手に入れたいと思います。
この本は坂の上の雲ミュージアムに寄託しています。
いつか、展示されればいいなぁなんて思う今日このごろです。
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齋藤七五郎と秋山真之が、親友に近かったのは、齋藤七五郎伝を読めば、明らか。齋藤は、秋山から捕虜になるつもりで行け、と旅順港口閉塞作戦で、言われている。広瀬武夫は、捕虜にはなりませぬ、と言った。司馬さんが、ベストセラーの齋藤七五郎伝を読んでない、とは考えられない。
坂の上の雲というのは、小説です。
その小説の中では、秋山真之と広瀬武夫の友情というのがひとつのテーマとして描かれています。
そんな中で、斎藤七五郎と秋山真之というテーマは必要なかったので書いてないんだと思います。
斎藤を書くなら森山慶三郎なんかのことも書かなきゃならなくなるし、収拾がつかなくなっちゃいますから。
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