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戦の上手さなら海兵37期筆頭! 大川内伝七中将の書簡

どーもです。
日本は69回目の夏を迎えました。
本当は15日に記事を書こうと思いましたが、忙しくて果たせず・・・・

でも、家にある軍装達には雨が降っていましたが室内で手入れをして一升瓶を供えて
「ご苦労様でした。」と言わせていただきました。

はてさて、今回の軍人さんは人は見かけによらないとマジで体現した方です。
話は太平洋戦争以前の日中戦争が激化しだした上海を舞台にやっていきたいと思います。

Imperial_Japanese_Navy_Land_Forces2.jpg

まずは大川内中将の説明から
大川内伝七
海軍中将 大川内傳七

明42(1909).11.19 候補生 宗谷乗組
明43(1910). 7.16 新高乗組
明43(1910).12.15 海軍少尉
大元(1912). 8. 9 砲術校普通科学生
大元(1912).12. 1 海軍中尉
大元(1912).12.20 水雷校普通科学生
大 2(1913). 5.24 浅間乗組
大 3(1914). 8.13 生駒乗組
大 4(1915). 5.26 肥前乗組
大 4(1915).12.13 海軍大尉 利根分隊長
大 5(1916).11. 6 横須賀鎮守府附
大 5(1916).12. 1 海大乙種学生
大 6(1917). 5. 1 砲術校高等科学生
大 6(1917).12. 1 敷島分隊長
大 7(1918). 1.25 欅乗組/艤装員
大 7(1918).11. 9 吾妻分隊長
大 8(1919). 8. 1 海兵教官/監事
大 9(1920).12. 1 海大甲種学生
大10(1921).12. 1 海軍少佐
大11(1922).12. 1 球磨砲術長
大12(1923).11.10 第二水雷戦隊参謀
大13(1924).12. 1 砲術校教官
大15(1926).12. 1 海軍中佐 第一艦隊参謀/連合艦隊参謀
昭 2(1927).12. 1 海大教官
昭 5(1930).12. 1 海軍大佐 横須賀鎮守府附
昭 6(1931). 4. 1 隠戸特務艦長
昭 6(1931).11.14 木曾艦長
昭 7(1932).12. 1 砲術校教頭
昭 9(1934). 8.20 浅間艦長
昭10(1935). 8. 1 比叡艦長
昭11(1936). 4. 1 横須賀鎮守府附
昭11(1936).11.16 上海特陸隊司令官/第三艦隊司令部附
昭11(1936).12. 1 海軍少将
昭13(1938). 4.25 砲術校長
昭15(1940). 9. 6 支那派遣艦隊司令部附
昭15(1940).10. 1 支那派遣艦隊参謀長
昭15(1940).11.15 海軍中将
昭17(1942). 3.16 軍令部出仕
昭17(1942). 7.14 第一南遣艦隊長官
昭18(1943). 9.20 軍令部出仕
昭18(1943).12. 1 舞鶴鎮守府長官
昭19(1944). 4. 1 軍令部出仕/海軍省出仕
昭19(1944). 4.20 電波本部長
昭19(1944). 8. 5 海兵校長
昭19(1944).10.22 連合艦隊司令部附
昭19(1944).11. 1 南西方面艦隊司令長官/第三南遣艦隊長官/第十三航空艦隊長官
昭20(1945). 1. 8 南西方面艦隊司令長官/第三南遣艦隊長官
昭22(1947). 1.25 復員
昭33(1958). 2.13 歿 (71)

ここのページを見ている方ならご存知かもしれませんが、
海軍にも陸戦を戦う部隊がありました。
鎮守府の海兵団から特別に陸戦用の人員を編成をして、艦船陸戦隊より長期にわたって陸戦を戦えるようにするための部隊です。
正式名称は特設鎮守府特別陸戦隊と言います。
その中で、戦車・機関銃装備の特殊部隊のような陸戦隊も作られていきます。
活躍の舞台としては、主に支那事変が激化してきて、日本の支那での権益を守る為に陸軍部隊が来るまでの足止めをする即応部隊として活躍して行きます。
そんな中で1932年、上海租界郊外で中国軍が軍事行動を開始します。
もちろん、(そのころの)日本は黙ってないですよね。
次第に衝突は拡大していきます。
海軍は支那派遣艦隊の前身である第三艦隊を急遽編成し、7000人の陸戦隊を派遣します。
上海派遣軍が増援に来て、この第一次上海事変は停戦します。
しかし、これによってそれまでバラバラだった海軍陸戦隊を上海防衛のためにまとめて、
上海海軍特別陸戦隊を独立して置くことにしました。
完全に海軍の陸軍部隊を作ってしまったわけなんですね。

その後、何事も無ければよかったのですが、
1937年にこの陸戦隊の中隊長だった大山勇夫中尉が殺害されます。
所謂"大山事件"によってまた、上海を舞台に中国軍と戦闘が始まってしまうのです。
これを第二次上海事変と言います。
でもこれは、中国軍から攻撃を開始して日本軍は防戦一方でした。
それもそのはず、陸戦隊約4000に対し、中国軍は3万以上の戦力で向かって来たからなのでした。
その時の陸戦隊司令官が今回の大川内伝七中将(当時少将)なのでした。
写真を見ていただければ分かると思いますが、眼鏡をかけて一見ひ弱そうな軍人です。
部下も着任の時に、こんな司令官で大丈夫だろうかと心配するほどだったようです。
ですが、いざ10倍くらいの敵を前にしても大川内司令官は的確に指示を出し、陸戦隊を守りきって、さらに中国軍に損害を与えています。
大川内
※陸戦隊司令官の時の大川内中将(画)

軍人は一見にしかず、では無いですが、
後年、海兵37期首席の井上成美大将はクラスの中での戦上手に小沢治三郎、草鹿任一と共にこの大川内中将を挙げています。
太平洋戦争の時には井上成美大将の後任の兵学校校長、そしてこちらで紹介した終戦直後の連合艦隊司令部の電文用紙にあるように、草鹿任一中将と同じ様な南西方面艦隊司令長官という役職でルソン島で終戦を迎えています。

そんな燃える闘魂大川内中将の書簡がこちらです。
Okawauchi_hozyutsu01.jpg

Okawauchi_hozyutsu02.jpg


Okawauchi_hozyutsu03.jpg

Okawauchi_hozyutsu04.jpg

Okawauchi_hozyutsu05.jpg

毛筆ってマジかよ、あんたぁ!
全っ然、読めない!
辛うじて、横須賀 砲術学校 大川内伝七が分かったので購入。
内容はリンクにある郵史日乗のGANさんに手伝っていただきました。

Okawauchi_hozyutsu06.jpg

Okawauchi_hozyutsu07.jpg

Okawauchi_hozyutsu08.jpg

誤字脱字等ありましたら、ご連絡下さい。
お相手は同期の藤森少将宛で、昭和14年3月14日附で出されています。
この時、大川内中将は横須賀にありました海軍砲術学校の校長をされていました。
内容は藤森少将が軍令部から北京在勤武官として着任される時に
内地から戦地勤務に転勤で栄転とは思ってないかもしれないが、おめでとう。
君は中国経営には無くてはならない存在だから、再度の戦地勤務だけど頑張って。
辻堂で演習があって送別会に行けなくてごめん、着任に行く時にちょっと会いたいから期日教えてくれない?
という内容です。
藤森少将は海軍で津田静枝中将らと並ぶ支那屋です。
経歴を見ると中国方面での活動が多い方です。
手紙の中の辻堂演習というのは、横須賀海兵団や海軍の術科学校に行った人間なら誰しも経験するであろう各科の学業卒業の総まとめとも言える演習です。
東海道線の辻堂駅付近で、一日何千人とも言える人間が紅白に分かれて三泊四日で陸戦演習をして、陸戦の仕方やチームワークを学ぶ演習のことだそうです。通称を辻堂演習と言うらしい(海軍よもやま物語より)。
海軍砲術学校の術科生徒も出ますから、校長である大川内中将も抜け出せなかったのでしょう。

私的な内容で、軍事的要素はあまりありませんが、
海軍の生活と言うか雰囲気を感じ取れる手紙ではなかったでしょうか?
内容が分かると面白いですw
手伝っていただいたGANさんには感謝を。
今回は大川内伝七中将の書簡でした。それでは。
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