スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

海軍予備学生・生徒

こちらのページは、海軍予備学生・生徒のことを纏めていこうというページです。
縁があって予備学生の方々との交流があるのでこの機会にページを作ろうと思いました。
随時、修正加筆をやっていこうと思います。

私も旧制の学校制度や予備士官の制度はやり始めたばかりなので完璧とは到底言えないレベルです。
間違い等ありましたらご指摘の方よろしくお願いします。

また、戦後70年ということで、各大学が何かしらのアクションを起こすべきだと考えています。
海軍予備学生についてはそれぞれの大学でも調査が進んでいるとは思えないような状況です。
そこで、もし大学の方で自校出身者を探しているという状況でしたら右側のメールフォームからご連絡下さい。
何かありましたらメールフォームよりお知らせ下さい。
Gakuto_shutsujin.jpg

※文中の文章、画像共に無断使用一切厳禁です。
<戦前の学生が大学生になるまで>
尋常小学校→旧制中学校→旧制高等学校(帝国大学に入る場合)・それぞれの大学予科→大学

これ以外にもパターンはありますが、こういった流れで当時の大学生は誕生しました。
今は、義務教育9年に3年ほど高校に行って大学生になるのが一般的ですが、
当時の学制は複雑で他にも専門学校や師範学校という課程も存在し、大学や大学院が最終学歴とは限らないので注意が必要です。
どちらかというと大学は当時のエリート教育の最高教育機関であり、全人口の1割にも満たない人間しか大学生活を送ることが出来ませんでした。
それどころか旧制中学に行くのも都心部以外では稀で、とある群馬出身の兵科4期予備学生の場合だと町の小学校から中学校に進学したのは彼一人だけだったようです。
大部分の人物は、小学校で終わって優秀な人間は高等小学校に行って就職というのが一般的だったようです。
旧制高校は大学に行く前の準備教育をするような学校で、官立の大学(高等学校)と一部私立大学(大学予科)が持っていました。
ちなみに大学の場合は学生ですが、専門学校の場合は生徒です。


<予備学生が出来るまで>
海軍の予備員令の歴史は古く、明治19年頃に始まったと言われていますがここでは省きます。
さて、海軍には古くから高等商船学校の生徒と予備生徒として扱い、予備士官として必要な時に呼び出す制度がありました。また、海軍軍医も学生の身分から委託学生として採用するという制度がありました。
しかし、一般の大学生、特に文系の学生が海軍士官になれる制度はありませんでした。
そんな折に、海軍によって昭和9年7月10日に『日本学生航空連盟海洋部』という組織が発足しました。
これは、将来の航空要員の不足を懸念した海軍が航空予備初級士官を増やす為に1年間操縦技術等を学ばせ、修業と共に航空予備士官に採用するための特定資格を持つ候補生を育てるための組織でした。
もちろん1年間の海軍航空隊での訓練だけでは足りないので、在学中から学業の妨げにならない程度に学生に操縦技術やその他教育訓練を施すし、二等飛行機操縦士の資格と取らせて予習させとくことが海洋部の目的でした。
そして、昭和9年11月に「海軍航空予備学生」制度が発足し、11月20日に第一期飛行専修予備学生6名が霞空に入隊することとなりました。しかし、一期生は海洋部を経てないので全くの素人の状態で海軍の訓練に入る事になりましたが、
彼等は最初の2ヶ月間は横須賀空で海軍軍人の基礎訓練を受けて、それから10ヶ月間は霞空で飛行訓練を受けました。
翌10年から海洋部修了第一期生が二期予備学生として入隊することになります。
このように予備学生が誕生していったのですが、海洋部は昭和11年7月から『学生海洋飛行団』と改称され、さらに支那事変が始まると昭和12年9月から『海軍予備航空団』となります。これは、海軍が求める戦力になるには1年の教育では足りないため修了後に民間に戻った後も飛行訓練の場を与えるための独立化です。
上記にありますが、この航空予備学生制度は修了後に「任海軍予備少尉」の辞令を貰って予備役に入り民間に復帰するのが普通でしたが、支那事変が始まり航空要員の確保が急務となったために第四期予備学生からは任官予備役即充員召集で民間に戻る暇がありませんでしたし、一期から三期の予備士官にも充員召集がかかったようです。
そして、昭和16年6月には太平洋方面がきな臭くなり、余裕も無くなってきて海軍予備航空団は解散となります。
以上、海軍は航空戦力の確保という目的で学生を予備士官にしましたが、もちろん飛行機には操縦士だけではなく整備士も必要です。
そこで海軍は昭和13年から”工科系学生に限り”整備科航空予備学生を募集します。
こちらも横須賀空で1年間教育を受けて海軍予備機関少尉に任官します。
その後、昭和16年より理系の学生も募集の対象になりますが、文系の学生はこれには入りませんでした。

今までは航空予備学生という制度の説明でしたが、いよいよ本題に入ります。
太平洋戦争が始まる前の昭和16年10月25日に、海軍省告示第三十四号が全国の大学のキャンパスに貼られました。
そこには、海軍予備学生(兵科)の募集要項が記載されていました。
この時から海軍航空予備学生という制度は無くなり、海軍予備学生が誕生することとなります。
海軍予備学生は適正検査などにより兵科、飛行科、整備科の3種類に分けられます。
そして、この時はまだ志願制でした。
第一期予備学生は候補生(士官待遇)の身分で海兵団で教育を受け、昭和18年1月20日に予備少尉に任官しました。
それまでの航空予備学生は海軍生徒の下の身分でしたが、海軍予備学生は少尉候補生に準ずる待遇だったようで海軍が如何に予備学生を大事にしていたかが分かります。
しかし、戦局が悪化していくにつれて初級士官の増員が急務となり、遂に軍部は昭和18年9月22日、それまで猶予されていた”学生生徒の身分の場合は卒業まで徴兵検査は禁止”という項目を破棄します(勅令第755号)。
これによって、20歳に達していた大学、大学予科、高等専門学校に通う学生・生徒は全員臨時徴兵検査を受けることとなりました。ちなみに、予備学生の募集要項では高専卒業以上という制限がありましたが、海軍は海軍予備生徒という種別をさらに別に作ることにより20歳以上の生徒も予備生徒になることになりました。学徒出陣の学徒は学生と生徒が含まれているからこう呼ばれています。
しかし、入隊は文系の学生・生徒のみで理系の学生は卒業まで猶予されることに決まっていました。なぜならば、理系科目は技術的な面などで戦争に必要とされたからです。
これは文系学生の悲劇と言えるでしょう(同じ文系学生として)。
臨時徴兵検査に合格した者には陸軍へは12月1日、海軍へは12月10日に入隊させると発表がありました。

この措置によって約10万人(陸軍8万人、海軍2万人)の文系の学生が軍人になることとなりました。
これが、”学徒出陣”です。
彼等の出陣に先立ち、18年10月21日に現在の国立競技場のある場所で出陣学徒壮行会が開かれ、参加77校の学生が校旗を先頭に雨の中、行進することとなりました。


<予備学生になるまで>
予備学生の兵科1期・飛行専修11期から3期・13期までは自らの意思で海軍軍人になった方々です。
しかし、4期・14期からは前項に書きましたように徴兵されて軍人になった方々です。
そして、この志願者と徴兵者の扱いが様々な要因によって随分と違います。
まず、志願で行った人は入った瞬間から候補生になれました。食事時には従兵が付くなど破格といえる待遇だったようです。しかし、学徒出陣組は最初、各地の海兵団に入隊する際にはなんと二等水兵からやらされることとなりました。
これにはいくつかの要因があります。
ひとつは陸軍に合わせるためです。陸軍は入隊時には二等兵から始まるのでそれをいやがる学生が海軍に流れ込む心配を陸軍が指摘したからこうなったのだと思います。
もう一つは、1期前の予備学生を大量に採用したからです。初級士官不足を睨んだ海軍は学生の大量採用に踏み切ります。が、そこの徴兵猶予停止となった学生が1万8000人も入隊することとなったので教育期間2ヶ月の間に採用試験を行おうにも時間が無いし、訓練地にも不足したからこのような措置が取られたのだと思います。

さて、志願して予備学生のなった方々は採用試験を経て入ってきているので最初から予備学生です。
しかし、昭和18年学徒出陣組は"徴兵"で海軍に入ったので最初は予備学生ではありませんでした。
二等水兵として12月10日に本籍地によって武山(横須賀)、舞鶴、大竹(呉)、相浦(佐世保)の各海兵団に入団することとなります。
15日には予備学生採用試験が行われ、合格発表は1月27日。約50日間は二等水兵として海軍の初期教育を受けることとなりました。
採用試験では筆記と面接の試験が2日間かけて行われ、不合格となったものは二等水兵として海軍に残ることとなります。
驚くべきことに海兵団入団者は1万8000人(通称2万人と呼ばれてたそうです)ですが、予備士官として採用試験に合格したのは1万600人程度です。残り7400人は二等水兵として海軍に残ることになりました。
彼等は泣いて分隊長にどうにかしてくださいと言っていたようですが、もうどうしようもなく兵隊として太平洋戦争を戦っていく事になってしまいました。
予備士官達はまだ資料が残っている方です。落ちてしまった方々の記録はほとんど残っていません。
ともかく、採用試験に合格したものは予備学生になり、飛行科(3300名)は土浦海軍航空隊と鹿児島海軍航空隊へ、兵科(3500名)は武山海兵団へ、飛行予備生徒(2300名)は三重海軍航空隊へ、兵科予備生徒(1000名)は武山海兵団へ、主計科(500名)は築地へそれぞれ赴任していきました。


<予備士官の軍装>
<昭和17年頃>

001_2015083114590656d.jpg

002_201508311459077c5.jpg

003_2015083114590985d.jpg

一種の袖章は山形の半カール、襟章もコンパスマークです。
3枚目の帽章を見ると、普通の士官は桜ですが予備士官はコンパスマークになっています。
予備士官の場合は普通の士官が桜の部分が全てコンパスマークになっていました。

<昭和20年頃>

004_20150831145911082.jpg

昭和20年頃の予備士官です。
帽章と袖章が普通の士官と同じになっているのが分かると思います。
昭和17年か18年あたりにコンパスマークが廃止になったはずです。(←うろ覚え)

予備学生の被服、短剣は最初に全て支給されます。
もちろん、海軍士官は全て自弁ですので、俸給から天引きされていたようです。
軍刀に関しては、慶應大のN少尉のお話によると実家のほうに頼んで作ってもらったとのことですから、支給ではなく各自で購入していたものと思われます。
※写真が手に入り次第、随時更新していきます。また、提供よろしくお願いします。


<各種データ>
<飛行科>
クラス入隊年月日入隊員数戦没者数戦没者内特攻死
1期S9.11.20600
2期S10.5.11550
3期S11.4.131710
4期S12.4.121460
5期S13.4.102090
6期S14.4.1130100
7期S15.4.1633240
8期S16.4.1543270
9期S17.1.1548241
10期S17.1.20100621
11期S17.9.30101704
12期S17.9.3070304
13期S18.9.3049881607447
14期S18.12.103319410159
1期生徒S18.12.10197416537
15期S19.8.102608220
2期生徒S19.8.1076410
16期S20.3.2514200
3期生徒S20.3.2525700
総計145492473653


<特攻戦死者の出身別割合>
海軍兵学校1164.6%
予備学生62925%
予備生徒371.5%
下士官・兵172768.9%
2509(陸軍は1338名)100%


※随時更新予定


<現在調べている人物>
ここでは、現在情報が欲しい方を列挙していきます。
探している方がいましたら問い合わせ下さい。
こちらに書き出していきます。

<兵科>
1期 籠宮三郎 中尉 第四警備隊 (東工大、昭和18年6月8日ティモール島で戦死)
4期 岩崎秀二 少尉 呉警備隊 (東北大)
関連記事
[ 2015/09/16 14:22 ] 軍制 | TB(0) | CM(1)

承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです
[ 2016/08/09 15:43 ] [ 編集 ]

コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://kaigungunso.blog.fc2.com/tb.php/79-f6a4fb46












上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。