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真珠湾攻撃前、鹿児島湾で行われた航空部隊の訓練命令書 蒼龍機密第21号

もう師走ですね・・・
また歳をとることになりましたobjectです。

さて、12月といえばここに来ている海軍愛好家?の皆さんにはハッと思いつくイベントがあるのではないでしょうか?
そうです、真珠湾攻撃です。
今回は、以前紹介した史料の続きというか、関連史料です。
海兵64期の稲野菊一海軍少佐が遺したもので、稲野少佐が大尉で蒼龍所属の戦闘機パイロットだった際のものだと思います。
今回はその史料を、当時駆逐艦乗組で真珠湾攻撃の際に蒼龍を護衛したIさんに聞きました話を盛り込みながら見て行きたいと思います。
どうぞ最後までお付き合い下さいませm(_ _)m
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まず真珠湾攻撃について詳しく知りたい方は、真珠湾攻撃のwikiや戦史叢書などでご確認ください。
また、真珠湾攻撃で調べるとたくさんのサイトやなんやらで説明がなされていると思いますので、ネットを活用しちゃって下さい。

その真珠湾攻撃の前に、鹿児島湾で航空機の攻撃練習が行われたことは有名だと思います。
鹿児島湾での訓練がどのように行われたかが分かるのが今回の史料です。
早速ですが、見て行きたいと思います。
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蒼龍機密第21号と名されたこの命令書は機動艦隊の戦闘機部隊に対する訓練を指示したものです。
当時の二航戦の旗艦は蒼龍で艦長は上阪香苗少将、司令官はあの山口多聞中将です。
と、いうことは搭乗員から人殺し多聞丸と言われた訓練がこれに当たるわけですねw
機密指定は最高の一個下の軍極秘です。
真珠湾攻撃はHQ以外はほとんど知らない機密事項だったのでこれも頷けます。後述の証言から分かりますが、実施部隊にも直前まで知らされていなかったようです。

この命令書によると二航戦は第一機動艦隊の戦闘機部隊の聯合訓練を指揮していたようです。
場所は鹿児島飛行場(現在の鹿児島空港)、期間は昭和16年5月20日から9月14日の約4ヶ月間で、
訓練内容は
(一)編隊郡空中戦斗法
(二)艦戦隊の敵航空基地空襲法
(三)敵艦隊空襲時に於ける攻撃隊との協同法
(四)多数戦斗機の通信統制法
の四項目に分かれていたようです。
訓練の指揮官も決められていたようで、指導官に上阪蒼龍艦長、補佐官に蒼龍飛行長、舟木加賀飛行隊長、野村蒼龍飛行隊長、板谷赤城飛行隊長、蒼龍整備長となっています。
舟木隊長は舟木忠夫中佐、野村隊長は野村了介中佐、板谷隊長は板谷茂中佐です。
名前を聞いただけで歴戦のパイロットやんけとなる面子です。

使用航空機は各艦の常用機全部で、搭乗員編成は以下の様になっています。
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劣化により見にくい所もありますが、頑張って読んで下さい。
小隊長の面子がこれまたスゴいことになっています。
志賀淑雄少佐はご存知の通り第三四三海軍航空隊の飛行長として活躍したエースパイロットです。
飯田房太中佐はその後、真珠湾攻撃に際に敵陣へ特攻をして戦死します。現在も突入地点には慰霊碑が設けられています。
進藤三郎少佐も歴戦のパイロットとして有名です。
まさにこの時期の海軍航空隊は世界トップクラスであったことは間違いないと思います。

ではどのように訓練は行われたのか、それを今度は見て行きたいと思います。
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5月20日から9月12日までのスケジュール表です。
准士官以上で訓練打ち合わせを行い、休業を挟みつつ訓練をして基地移動というのがだいたいのスケジュールです。
空母への着艦は難しいと聞きますが、前半をほぼ着艦訓練に費やしているのが分かると思います。
それにしてもどんどん後半になるにつれ休業が少なくなっていってます。
そりゃ人殺しと言われても仕方ないですなw

次に鹿児島上空での訓練空域の図です。
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鹿児島市内がすっぽりと訓練空域に入っています。
鹿児島にはこの時の訓練の際の逸話がたくさんありますが、それも頷けます。
この時の鹿児島に行って見てみたいものです。

訓練内容の詳細は
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戦闘機隊の攻撃フォーメーションの説明がなされています。
正直、私はこれを読んでもほーんとしか思えなかったので、何かお気づきの方はご教授お願い致します。

最後に、演習での味方識別のカラーリングについての説明です。
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モデラーの皆さん、ぜひ参考にして下さい。

では、真珠湾攻撃の際の部内の様子はどうだったのでしょうか?
それを、当時、駆逐艦乗組として参加された方の証言で見てみたいと思います。
なお、ブログに書くにあたり中略等の編集を行っております。また文責も私にありますので何かあった際は私にお願いします。
また転載使用一切厳禁です。これは必ず守って下さい。
以下object=O、Iさん=Iです。(敬称略)

O. 開戦前の雰囲気はどうでしたか?
I. 戦争が始まるなんて全然分かりませんでした。
聯合艦隊の訓練が終わって10月半ばに中央が戦争決心をして部隊ごとに作戦別に特別訓練をさせるようになったのですが、私の艦は航空母艦と一緒に組み込まれて私はいったい何をするんだろうかと非常に不思議に思っていました。
10月終わりに洋上での燃料補給の訓練が始まって、それから明け方に飛行機を発進させる空母の後ろについて警戒をする、そういうような訓練がずーっと行われました。
それが終わって11月3日に全部志布志湾に集まって明治節の遥拝式をやって母港に帰って、出師準備ということで戦争の準備をしました。訓練だと思いましたが、防寒服準備、艦の防寒工事をやれと言われていったい何処に行くのだろうと不思議に思いました。
それから16日に呉を出て佐伯湾に集合したのですが、呉を出る時もまだ訓練地に向かうつもりで戦地に行くなんて思いもよらなかったことを覚えています。
佐伯湾に行くと機動部隊が全部集まっていて、長官から指揮官集合で艦長が話を聞きに行ってそこで初めて艦長からハワイに行くと聞かされました。一般乗員には出港後、もしくは単冠湾集合後知らせるとのことだったように思います。

O. 単冠湾ではどのような状況でしたか?
I. 単冠湾に着いてから、加賀に搭載する航空魚雷が間に合っていないので長崎まで取りに行くことになりました。
それで長崎に急行して技師を乗せて、確か48本だったかな、魚雷を受け取ってそれで単冠湾で急遽整備してたから大変でした。
湾では海防艦が入り口を見張っていて漁船一隻すらいませんでした。単冠湾にも人っ子一人いないし、白く雪の積もった山に囲まれて大艦隊が停泊しているのは壮観でした。
それから糧食や燃料を積んで11月26日に出発しました。また、佐伯湾から出発した時から無電封止を行っていたように思います。
ただこちらは東京放送で命令やら何かは聞こえていたし、太平洋を進むにつれて今度はアメリカのラジオが聞こえますからそこから情報収集なりをしていました。

O. 真珠湾に向かうまで、どのような状況でしたか?
I. とにかく洋上で油を受け取るのが大変でした。
日によっては受け取れない日もあるので、兎に角晴れたら油を積む。減ったら減った分だけ積む。そういう作業の繰り返しでした。
それから、艦の位置を把握するのも大変でした。
もちろん陸地は見えないですから天測を行いましたが、天気が悪かったから太陽や月、星が見えない日が多くて少しでも星が見えたら天測をするといった日々でした。
私は航海が専門でしたから、夜中でも星が見えたらすぐ起こせと言っていました。
また当直はですね、艦橋当直に立てるのは航海長と水雷長と砲術長の三人だけでしたからそれに艦長を入れて4人で24時間警戒に当たっていました。それ以外はほとんど休養で寝てばかりでした。
とにかく時化で烹炊所の火が焚けないなんて日もありました。
180度を越えて向こう側に入ったら天気がよくて燃料補給もずーっと順調に行われたのを覚えています。天気がいいから位置も良く入るし、それから12月3日、4日くらいになるとホノルル放送が入り始めて、聞きながら敵はまだ気づいていないなと分かりました。だいたい我々は果たして上手く行くんだろうかという気でしたからね、見つからずに攻撃が出来るのだろうかという心配がありましたね。見つかったら終わりですからね、見つかったらどうなるんだろうかと思っていました。

O. ニイタカヤマノボレの電報は聞きましたか?
I. ああ、あれは12月2日でしたね。もちろん聞きました。

O. 攻撃開始の時はどのような状況でしたか?
I. 私の艦は山口多聞の旗艦の蒼龍の後ろについていました。距離は1000mの近さでしたからね、日没前から準備を始めて、航空機のエンジン音が響いてくるようになり、明け方頃になると一斉に航空機が発艦していくのが見えました。
最初は軽い戦闘機が出て上空を飛んでいて、次に艦爆が出て、一番最後に重い艦攻が出て行きました。そして編隊組んで出て行く。
そのうち、『トラトラトラ』の奇襲成功の電波が生で入ってくる。(object、年甲斐も無くハシャぐ)
あぁ〜、やったぁ・・・と思いましたね。

Iさんの証言から、開戦と攻撃目標は直前まで極秘にされて士官と言えども知らなかったことが分かります。
また、苦労された点などはまさに行った人間だからこそ分かるリアルさが伝わってくると思います。
多くは言いません。心で感じて下さい。
貴重な証言をしてくださったIさんにこの場にて失礼ですが御礼申し上げます。
ありがとうございました。


さて、史料と証言に二方面から真珠湾攻撃を見て行きましたがどうだったでしょうか?
特に証言は今後貴重な史料として戦史研究には不可欠なものになっていくでしょう。
オーラルヒストリーの重要さを身を以て体感した記事でした。
本当に私の世代が話を聞ける最後の世代なんだと思います。
皆さんも自分のおじいさんや近所の高齢者からそういった話を聞いておいた方がいいと思います。
また、そういったことをしたいけれどどうすればいいか分からないと思っている学生さん諸君、紹介などは出来ませんが方法は教えることは出来ると思います。気軽に質問等どーぞ。
明日は太平洋戦争開戦からちょうど74年後です。
各地で勇敢に戦った英霊達に黙祷を捧げたいと思います。合掌。
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